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2013/09/16

モーリス・ルブラン「リュパン、最後の恋」創元推理文庫の翻訳について

創元推理文庫の翻訳について、以前の記事で“盛って”いると表現した。監訳者あとがきで、日本の読者に分かりにくいところに註を入れたり、状況的に分かりにくいところに補足をしたと書いてある通り、ハヤカワ版にはない文章や内容が挿入されている。それを承知でよみ始めたのだが、違和感がぬぐえず、途中でよむのをやめてしまった。

一つにはハヤカワ版が既読であり、内容が頭に入っているということもあるのだが、ルブランがどういう意図でどう書こうとしたかというのは誰にも分からないことであり、創元版の説明や補足がルブランの意図を踏襲しているとは限らない。原作をある程度理解した上で読まなくては“流されて”しまうと思ったからだ。原文を直接読めない以上、どうあっても翻訳者の解釈が入ってしまうけれど…。

読了は先に延ばすとして、気になった箇所をいくつか触れてみたい。
(早川)と注記しているのは、「ルパン、最後の恋」(早川書房、電子書籍)からの引用のためページ数なし。


1. 会話文

「まず、ご報告したいことがあります。実は、パリの郊外に館を購入しました。貴女もご存じでしょう。パリの北西にあるジェンヌヴィリエという村のなかにジュランヴィルという古代の町の遺跡があるのですが、その近くにティユール館があって、それを購入したのです。セーヌ河に沿った、いいところですよ。貴女にもぜひお越しいただきたい」(P66-67)

ザ・説明セリフ! みたいな。
同じ説明が直前にあるから余計にくどくどしく感じる。

ジェンヌヴィリエ村にはジュランヴィルという古代の町の遺跡があるのだが、(P65)

ちなみにハヤカワ版。

「まずお知らせしておかねば。わたしはこのあいだ、パリの近郊に屋敷を買いました。ジュランヴィルのティユール城です。あなたにも、遊びにいらしていただければと」(早川)

原作既読者からすると、ジュランヴィルに遺跡があるのは世間に知られていることではなくて、考古学好きのサヴリーが発見したことではないのか、と思う。


2. 地の文

この報告を受けて、予審判事と検事が憲兵を引きつれて、捜査を開始した(フランスでは重罪事件の場合、まず予審判事が取り調べをすることになっている)。その結果、〈殺し屋三人組〉が《ゾーヌ・バー》にやって来たこと、そして《ゾーヌ・バー》から競技場に付属した建物に向かったことが確認された。というのも、昨夜は七時すぎから雨が降っていたので、《ゾーヌ・バー》から競技場に付属した建物まで、三人の足跡が残っていたのである。そして、競技場に付属した建物からは、足跡は今は廃業しているレンガ工場の跡地まで続いていた。(P90)※丸括弧()内は分かち書きの注釈

司法官たちはすぐに捜査を開始した。夜のあいだに雨が降ったので、バーへむかう道とバーから出て行く道には三人の足跡が容易に確認できた。足跡はレンガ工場の跡地の囲い地まで続いていた。(早川)

やはり創元版は表現がくどくどしく感じる。「競技場に付属した建物」という繰り返しは何とかならないだろうか。たとえば「現場」とか。たしかに司法官たちとは何を指すのか日本人には分からないけど、司法官の一人という物の数に入らない存在から、予審判事であり、フルヴィエという名を持つ人物だと浮かび上がってくる、となっている原作の書き方は割と面白いと思った。


3. 人物描写
これは私にとって大問題。

そこにはまだ三十代後半に見える、背の高い溌剌とした男がいた。(P93)

小山のうえに、スポーティーな服装のまだ若々しい男が立っている。(早川)

原文に身長をうかがわせる描写はみあたらない。アルセーヌ・ルパンは他の作品では「中背」だし、本作品中のある行動はコンパクトな体格だからなしえたことなのに。足跡が小さめなのだから、それで支えきれるくらいの体型が似合うよ。


体型といえば、ハヤカワ版で少し引っかかった描写があった。

「けっこう。そうしたら家に帰って、仲間に伝えろ。引き締まって筋骨たくましい男を縛るのに、しっかりしたロープをひと束用意しろとな。(略)」(早川)

なんかこう、ガタイがよさそうに思えて…。
そこで、原文を確認してみた。「individu mince et athletique」。
自動翻訳によると「やせてスポーツマンタイプの個人」。
創元版では次の通り。

「よし。おまえはこれから帰って、仲間に今夜、仕事があると伝えろ。そして、丈夫なロープをひと巻き用意しろ。男をひとり縛るためだ。そいつは細身だが、力は強い。(略)」(P205)

ハヤカワ版でも間違いではないのだろうけれど、「mince」は他の作品におけるルパンの描写では、細いとかほっそりしたと訳されることが多い。


4. 地名
地図が付いている時点で、怪しむべきだった。というのは、作中に出てくる地名ジュランヴィルは、私が調べた限りでは存在が確認できなかったからだ。

パリの北に位置する地名、パンタンとジェンヌヴィリエとジュランヴィルのうち、パンタンとジェンヌヴィリエは実在する地名、ジュランヴィルは架空と思われる地名だ。ジュランヴィルの位置は不明瞭で、現実の地図にプロットできないということもありうる。(「緑の目の令嬢」の宝の場所だって地図にできない。)

創元版では、ジュランヴィルがジェンヌヴィリエの中にあると解釈されている(1で引用したとおり)。けれど、原作ではジュランヴィルに帰るジョゼファンとマリ=テレーズがパンタンに戻るという言い方をされている箇所があるから、パンタンに近いと考えることも可能なのだ。さらに創元版では地名が置き換えられている。

王妃になるなら、わたくしは〈貴方の王妃〉になります。それがわたくしの望みです。貴方の王妃となって、ジェンヌヴィリエの子供たちの王妃にもなることが……。(P302)

わたしはあなたの王妃になります。それがわたしのただ一つの願いです。そしてパンタンの子供たちの王妃に。(早川)

パンタンはトロップマン事件のような陰鬱な事件の影響が残る土地。だからこそ、パンタンの子供たちということばが活きる。パンタンの子供たちはジョゼファンとマリ=テレーズだけでも、ココリコ大尉の生徒たちだけでもなく、悪環境の中を生きるすべての子供たちの象徴と考えることだってできるのだ。

同じく創元版では、悪魔島をサン・ドニ島に比定しているが、架空の島ではないか。これも、原作と描写が変わっている。


引用していてあらためて思ったのが、創元版では同じ内容を繰り返していることが多い。説明先行でスマートさに欠ける。

モーリス・ルブラン「リュパン、最後の恋」創元推理文庫入手のこと
モーリス・ルブラン「ルパン、最後の恋」ハヤカワ文庫入手のこと

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コメント

お疲れ様です。
先ず手持ちの早川ミステリー(HPB)本と早川文庫(HM)の丁付をご紹介して置きましょうか。

1.会話文
「まずお知らせしておかねば。わたしはこのあいだ、パリの近郊に屋敷を買いました。ジュランヴィルのティユール城です。あなたにも、遊びにいらしていただければと」(早川)
HPB.S.50、HM.S.54

2.地の文
⇒「分かち書き」と云うのは、羅馬字などで単語を繋げずに隙間を入れて書く事だと思います。創元推理文庫の該当する註は「割註」と云うと思います。

司法官たちはすぐに捜査を開始した。夜のあいだに雨が降ったので、バーへむかう道とバーから出て行く道には三人の足跡が容易に確認できた。足跡はレンガ工場の跡地の囲い地まで続いていた。(早川)
HPB.S.69、HM.S.76

3.人物描写
小山のうえに、スポーティーな服装のまだ若々しい男が立っている。(早川)
HPB.S.71、HM.S.78

「けっこう。そうしたら家に帰って、仲間に伝えろ。引き締まって筋骨たくましい男を縛るのに、しっかりしたロープをひと束用意しろとな。(略)」(早川)
HPB.S.153、HM.S.169

4.地名
わたしはあなたの王妃になります。それがわたしのただ一つの願いです。そしてパンタンの子供たちの王妃に。(早川)
HPB.S.223、HM.S.247

今回はこの作品は未読だったので、大雑把とは云え早川文庫版主とて創元推理文庫版と比べながら終り迄読んで見ました。

さて、地図ですが、創元推理文庫版には3葉入っています。巻頭のものは兎も角S.248の「レルヌ邸の敷地」とかS.260の「庭の防犯装置」の図は原書に入っているものなのか或は創元推理文庫でオリヂナルに入れたものなのでしょうか?若し後者とすると些か読者に対して「過保護」な気もします。なくとも分らないと云うものではない気がします。
巻頭の地図は難しい処があります。仏蘭西人が原文で読むには不要だろうと思います。仏蘭西人は多分なくとも大体は分るからです。丁度邦人が、東京-品川-横浜-小田原と云う地名が挙がった時、多少地理勘のある人ならば大体の位置は判ると思います。仏蘭西人は自国を大事にしますからこの程度の関係は地方の人でも判るのでしょう。一方邦人はそのような地理勘は期待できませんから、訳者の註として入れる事は納得が行きます、が、勝手の改変をしていると成ると拙いです。

一般に創元推理文庫は人名(渾名)なども分りやすくしようとしている気がします。
ココリコ --- コッコ(コケコッコ)
ドゥーブル=チェック --- ダブル・トルコ
などでは、邦人の耳に入り易いのは、後者の創元推理文庫版でしょう。

ただ、どう見ても勝手の補充と思える箇所もありますし、そこ迄はと云う感じの箇所もあります。なお、訳文そのものが創元推理文庫版の方が早川版に比べてややくどめな感じがします。これは補充などをせない箇所を読み比べて見るとその感があります。
まあ、確かにHPBのSS.142-143、HMのSS.157-158のルパンの指示には今晩報告せよと云う指示はないが後にその事をジョセファンは云っていますし、HPBのS.137、HMのS.152では突如ジョセファンが登場してきます。これが創元推理文庫版では、それぞれS.191とS.186とでルパンは「今夜じゅうに一度」と指示をし、「の下に、ジョセファンが現われた。」と補ってあります。監訳者の気持ちもわからないではないのですが、結果として少しやり過ぎの感があります。補綴は最小限として地名や文物・歴史の説明は訳註とすべきだったようの気がします。

寧ろ、創元推理文庫は怪盗紳士や告白の改訳や版権の関係で一度だけ出版した「813の謎」の新訳による再出版、或は底本の不備から不完全の訳しかない「数十億」の新訳による完訳などを希望したい処です。(無論実質絶版状態になっている他の巻も改訳される事が好ましいのですが)

ページのご教示ありがとうございます。
本来は調べたうえで書くべきでしたが、確認できていませんでした。

「ルパン最後の恋」のBalland社の原書を持っていますが、図版は一枚もありません。すべて創元推理文庫オリジナルだと思います。「レルヌ邸の敷地」と「庭の防犯装置」は原文と付き合わせていませんが、巻頭の地図の内容は記事に書いた通り、疑問が生じるものでした。人名を意味重視で分かりやすくするのはありですが、日本語ではなく英語にするのは疑問ですね。

ハヤカワ文庫版P152のジョゼファンの登場は唐突に思えますし、P151後半の会話の応酬は誰がどの台詞を言っているのか分かりにくくて(ココリコが隠し扉の存在を知っているのかどうか分からないため)、ハヤカワ文庫版を読んで引っかかった部分ではあります。でも創元推理文庫は会話を崩して台詞を作っているのですよね(P184-185あたり)。原作の理解の助けにはならないと感じました。

創元版はどういう読者を想定しているのでしょうか。翻訳ならハヤカワ文庫がありますし、児童向けなら(さして児童向けとも感じませんでしたが)ポプラ社版がある。子供向けなのかとも思いましたが、「掩蔽壕 (えんぺいごう)」(P99)だけ妙に単語が難しいのですよね。単に私の不勉強ですが、どういうものだ?と思いながら読みました。ハヤカワ版は「防塁」です。形は分からなくても、見たことのある単語なのでスルーできる範囲でした。

私が一番望むのは「奇岩城」の完全版の忠実な訳ですが、忠実さは期待すべくもないようですね…。

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