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2011/03/04

ゆえに我あり - 戯曲アルセーヌ・ルパン(3)、王妃の首飾り(1-5)

※以下の文章は「王妃の首飾り(1-5)」の内容に触れています。※


「戯曲アルセーヌ・ルパン(3)」には、アルセーヌ・ルパンの標語が登場する。

警視 ルパンは犯行の跡を残していきませんが、これはずいぶん粗雑です。
公爵 でも、ぼくの舅になる人は昨夜手紙を受け取っていますよ。このサインだって青いチョークで書かれています。しかも石鹸チョークです。
警視 公爵、そんなものは模倣できます。嫌疑をそらそうとしているんです。もう三度も、こういう事件があったのです。(論創社「戯曲アルセーヌ・ルパン」P74/戯曲アルセーヌ・ルパン(3))

判事 ふむ。門番については、のちほど尋問します。門番室で、縄でしばられ、猿ぐつわをかまされていたのを発見したのは公爵、あなたでしたね?
警視 そうです、判事。これもルパンの真似です……黄色い猿ぐつわに青い縄だったのです。おまけに厚紙の切れ端に、いつもの標語もありました。〈われ盗む、ゆえにわれあり〉ってね。
判事 (傍白、警視に)また新聞で、われわれを公然とばかにする気だ。そうだ、女中に会っておこう……どこにいる?(論創社「戯曲アルセーヌ・ルパン」P77-P78/戯曲アルセーヌ・ルパン(3))

警視は模倣犯だと決め付けていて、判事はルパンが犯人に違いないと思っている。ちょっとかみ合ってない会話だ。それはさておき、〈われ盗む、ゆえにわれあり〉、この言葉はデカルトが著した「方法序説」に出てくる文句のパロディである。

このようにすべてを偽であると考えようとしている間も、そう考えているこの私は必然的に何ものかでなければならないことに気がついた。そして、「私は考える、ゆえに私はある」というこの真理はたいそう堅固であって確実であって、懐疑論者のどんな法外な想定をもってしても揺るがしえないと認めたので、私はこの真理を私が求めていた哲学の第一原理として、ためらうことなく受け取ることができると判断した。(「方法序説」P56)

私とは一つの実体であって、その本質つまり本性はただ考えることのみであり、存在するためには、いかなる場所も要らないし、いかなる物体的なものにも依存していないこと。したがって、この私、すなわちそれによって私が私であるところの精神は、物体から完全に区別されており、またそれは物体よりも知られやすく、たとえ物体がないとしても、精神はやはり精神であり続けるであろう、ということを知った。(「方法序説」P57)

デカルトは「方法序説」をフランス語で書いた。曰く、《Je pense, donc je suis》。ラテン語訳《cogito, ergo sum》としてよく知られているが、デカルト本人はこのラテン語表記を用いたことがないらしい。


一方、〈われ盗む、ゆえにわれあり〉の原文は《Je prends, donc je suis.》。「prends」(「prendre」)は、邦訳ではたいてい「盗む」と訳されている。他の訳は「奪う」くらいだろうか。

彼の格言、「われ奪う、故にわれあり」は彼をさらに遠くへ導く。(「推理小説の歴史はアルキメデスに始まる」P57)

「prendre」には、「盗む」という意味もあるが、辞書上の第一義は「取る」であり、手に入れる、奪うなどの意味がある。「盗む」でも良いけれど「人に知られないように」(ぬすむ)っていうニュアンスは必ずしも必要じゃないかなあ、と思ったり。たとえば「盗(と)る」とか。「我は盗る、ゆえに我あり」。分かりにくいか。


ルパンの盗み観が表れたシーンが「王妃の首飾り(1-5)」にある。

「いや、あなたの小説はじつにおもしろい。まったく奇想天外です。興奮させられましたよ。ところで、その孝行むすこの模範みたいな少年は、それからどうなったのですか? まさか、そんなりっぱなおこないをとちゅうでやめたりはしなかったでしょうな?」
「もちろん、やめませんでした」
「そうでしょうとも! あんなにはなばなしくデビューしたのですからな! もう六歳で、マリ=アントワネットがあんなにほしがっていた《女王の首かざり》をぬすんでしまったんですから!」
「それも、自分ではこれっぽっちも不愉快な思いもしないで、ぬすんだのですからね」とフロリアーニは、伯爵のじょうだんに口を合わせながら言った。「(略)こんなにやすやすとやってのけられたのですから、あの年ごろの子どもがすっかりうれしくなってもあたりまえでしょうね。彼は思ったでしょう、なんだ、こんなにやさしいのか? ほしければ手をのばすだけでいいんだってね……それで、彼はそれからも……」
「手をのばしたのですな」
「両方の手をね」と勲爵士は笑いながら言った。(岩波少年文庫「怪盗ルパン」P180-181/王妃の首飾り(1-5))

- N'est-ce pas! Apres un tel debut! Prendre le collier de la Reine a six ans, le celebre collier que convoitait Marie-Antoinette!

- Et le prendre, observa Floriani, se pretant au jeu du comte, le prendre sans qu'il lui en coute le moindre desagrement, sans que personne ait l'idee d'examiner l'etat des carreaux, ou s'aviser que le rebord de la fenetre est trop propre, ce rebord qu'il avait essuye pour effacer les traces de son passage sur l'epaisse poussiere... Avouez qu'il y avait de quoi tourner la tete d'un gamin de son age. C'est donc si facile? Il n'y a donc qu'a vouloir et tendre la main?... Ma foi, il voulut...

欲しければ手を伸ばすだけでよい。そこに「ある」から「とる」のだ。この箇所の「prendre」は盗むという行為の直接的というよりは婉曲的な表現として用いられている。むしろ伯爵は犯罪色のある言葉を忌避して用い、勲爵士はそれに乗っかって2回繰り返したのだと思う。


余談ながら、「方法序説」の正式な題は「理性を正しく導き、諸学問において真理を探求するための方法序説」である。これを見て「黄色い部屋の謎」のルールタビーユ思い出さずにはいられなかった。ルールタビーユは「理性を正しく働かせること」が口癖だ(正確には《le bon bout de ma raison》、理性の正しい先端)。

「ぼくの理性を正しく働かせて、彼に目星をつけたのですよ。裁判長。(略)」
「その『理性を正しく働かせて』というのは、いったいどういう意味かね?」
「それはですねえ、裁判長、理性には正しい働かせ方と間違った働かせ方があります。理性がたしかな拠り所になるのは、正しく働かせた場合だけです! 正しく働かせれば、理性はぜったいに挫折しない。なにをされても、なんと言われても、びくともしません!(略)」(「黄色い部屋の謎」P317-318)

□参考文献
ルネ・デカルト『方法序説』山田弘明訳、ちくま学芸文庫、2010年
フレイドン・ホヴェイダ『推理小説の歴史はアルキメデスに始まる』三輪秀彦訳、東京創元社、1980年
ガストン・ルルー『黄色い部屋の謎』長島良三訳、集英社文庫、1998年


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